執着すること、しないこと
訓練生のTです。今回は、なんかテキトウにブログ記事を作成せよ!と無茶ぶりを受けたので、なんとなく日々考えていることをつらつらと書いてみます。つれづれなるままに、日暮らし、PCにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。というわけです。
さて、「執着」とは仏教でよく使われる言葉です。
仏教では「執着(しゅうじゃく)」と読み、苦しみを生む原因として捉えられています。この世は諸行無常(しょぎょうむじょう)であり、あらゆる事物は変化していきます。なのに物事に変わらないもの・永遠を求めてしまい、信じ込んでしがみついてしまう。それが苦しみを生む、という考え方です。
私は、自分を振り返るとき、よくこの言葉を思い出します。
例えば自分のキャリアを考えるとき、今までしてきた仕事や経験、もっと言えば私の人生そのものをどのくらい大切に、大事なモノとして捉えるべきなのか。
例えば生活リズムを振り返るとき、どれくらい厳しく規則正しい時間を追い求め、日々を過ごすべきなのか。
今までの自分に執着して選択肢を狭めていないか、正しい時間に執着して生活が息苦しくないか、執着することで自分を自分で追い詰めていないか・・・。日々の生活の中に、執着はどこにでも誰のなかにでも潜んでいます。
一方で執着することは大切なことでもあります。物事に全く執着しない人がいたとしたら、なんでも捨ててしまえるその人はどれくらい信用できるのでしょうか?友人としてうまく付き合っていくことはできるでしょうか?
大切なのはバランスです。執着しすぎてはいけませんし、無理して執着を全くなくすこともないのだと私は思います。
仏教の教え、その一部分を切り取って、物事を判断してはならない。言うは易く行うは難しですが、執着と程よい距離感で付き合っていきたいものです。